群馬県民なら誰でも知っている『分福茶釜の茂林寺』に行ってきた!
江戸時代の妖怪絵師・鳥山石燕が描いた「茂林寺の釜」
突然ですが、群馬には「上毛カルタ」という郷土カルタがあります。
これは群馬の歴史や名産品・有名人などを盛り込んだカルタで、群馬県民から愛されております。
ちなみに群馬県民は幼少期からこの上毛カルタを意味も分からないまま叩き込まれるので、読み札の殆どをそらんじることができる。
「ろ」の読み札「老農 船津伝次平」とか幼少期は何なのか全く判っていなかったし、正直今も伝次郎とは誰なのか知らないけどとりあえずそらんじることはできるのである。
もし群馬県民を名乗っていながら上毛カルタをそらんじることが出来ない奴がいたら、そいつはモグリと考えて間違いない。
そんな上毛カルタの「ふ」の読み札が、今回訪れた『分福茶釜の茂林寺』である。
「分福茶釜の茂林寺」の絵札
あまりに有名すぎる寺なので珍スポットだと思ったことはなかったが、よく考えたらタヌキの寺だし実は珍スポなのでは・・・?と思い訪ねてみることにした。
「分福茶釜」といえば有名なのは昔話。
Wikipedia先生によると昔話「分福茶釜」のあらすじはこんな感じである。
“貧しい男が罠にかかったタヌキを見つけるが、不憫に想い解放してやる。
その夜タヌキは男の家に現れると、助けてもらったお礼として茶釜に化けて自身を売ってお金に換えるように申し出る。次の日、男は和尚さんに茶釜を売った。和尚さんは寺に持ち帰って茶釜を水で満たし火に懸けたところ、タヌキは熱さに耐え切れずに半分元の姿に戻ってしまった。タヌキはそのままの姿で元の男の家に逃げ帰った。次にタヌキは、綱渡りをする茶釜で見世物小屋を開くことを提案する。この考えは成功して男は豊かになり、タヌキも寂しい思いをしなくて済むようになったという恩返しの話である。”
このタヌキが釜に化けるという物語の由来となったのがここ茂林寺に伝わるタヌキ伝説なのだといいます。
茂林寺に到着しまず寺の前の道路をふと見ると、早速マンホールがタヌキ!
身体が茶釜になっている分福茶釜タヌキが描かれております。
「おすい」の字と楽しげなタヌキのコントラストが何ともいいね。
そして門を通り抜けると・・・
左にタヌキ!
右にタヌキ!
左にタヌキ!
ずらずら~~っと立ち並ぶ巨大タヌキたちがお出迎え!
タヌキ嫌いな人が見たら門前でぶっ倒れそうな光景である。
中でも一番大きなタヌキはこの大迫力!
睾丸部分だけで高さ1メートルは優にありそう。ご立派ご立派。
しかしタヌキってこんな気持ち悪い顔つきでしたか?
ほ乳類の枠を超えて、伊豆の深海生物館にいそうなお顔ですけど・・・。
でも可愛いタヌキちゃんもいます。
これはお腹が鈴に化けている子供タヌキ。
台座に書かれた川柳「八畳を 隠し狸の 座も夏野」の「八畳」とは『狸の金玉は八畳敷き』の八畳ですな。
今更言うまでもないことだとは思いますが、「タヌキの金玉は広げると八畳もの大きさになる」っていうのが何故か日本では常識。
上に挙げた巨大タヌキを見ても判るとおり、巨大な金玉なくしてタヌキの名は名乗れないのだ。
そもそも何故タヌキの金玉は八畳敷きと言われているのかふと疑問に思ったので調べてみたところ、「金箔を作る際に、小さい金の玉を狸の皮に包んで槌で叩き伸ばすと八畳の大きさになるから、そこから連想されてタヌキの金玉が八畳敷きとなった」というのが通説らしい。
実際タヌキの剥製なんかを見ても特に金玉が大きいわけでもないので不思議だったんだよねえ。
しかしながら、さっきから金玉金玉とこの女は何を堂々と書いているのだと皆様お思いになるかもしれないが、わたしはこの「タヌキの金玉は八畳敷き」概念を日本の伝統文化の一つとして堂々と提唱したい(真顔)。
特に江戸時代に描かれたタヌキの浮世絵は本当に可愛く、タヌキとタヌキの金玉がいかに江戸の人々に愛されていたか容易に想像のつく作品が多い。
わたしが一番好きなのは歌川国芳が描いたこの「狸の川がり」「狸の夕立」である。
「狸の川がり」では金玉を使って魚を捕まえる様子が、「狸の夕立」では金玉を広げて雨宿りをしている様子が描かれている。
なんて便利なんだ、金玉!
そしてなんといってもタヌキの可愛さが最高なこの2作品。
特に「狸の夕立」では、女タヌキに金玉を貸してあげて自分は雨に濡れる男タヌキの格好良さにしびれるねえ。
とまあ、この辺で日本伝統のタヌキと金玉文化の魅力は十分伝わったと思うので、茂林寺の紹介に戻りましょう。
この寺のメインはなんと言っても冒頭に紹介した「分福茶釜」伝説の根拠となっている「茶釜」の展示です。
宝物館に展示されていその茶釜がコチラ。
タヌキ要素ゼロのいたって普通の茶釜である。
「分福茶釜」伝説では、身体の半分がタヌキの姿に戻ってしまったはずだが・・・?とお思いの皆様、実はここ茂林寺に伝わる「分福茶釜」伝説は我々が昔話として知っているものとはかなり違う物らしいのだ。
その元祖「分福茶釜」物語はこうである。
寺伝によると、茂林寺を開山した大林正通に従って、伊香保から館林に来た守鶴という者がいた。
元亀元年(1570)、七世・月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、大勢の来客を賄う湯釜が必要となった。すると守鶴は一夜のうちにどこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えた。この茶釜は不思議なことにいくら湯を汲んでも尽きることがなかった。守鶴は自らこの茶釜を福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、この茶釜の湯で喉を潤す者は開運出世・寿命長久等、八つの功徳に授かると言われたという。
その後十世・天南正青の代に、守鶴は熟睡していて手足に毛が生え、尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまった。これ以上寺にはいられないと悟った守鶴は、名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と釈迦の説法の二場面を再現して見せた。
人々が感涙にむせぶ中、守鶴は狢の姿となり、飛び去ってしまった。時は天正十五年(1587年)二月二十八日。守鵜が寺にやってきてから百六十一年の月日が経っていた。
後にこの寺伝は、明治・大正期の作家、巌谷小波氏によってお伽噺「分福茶釜」として出版され、茶釜から顔や手足を出して綱渡りする狸の姿が、広く世に知られる事になった。
・・・つまり、「分福茶釜」の真骨頂とも言える茶釜に化けていたタヌキなんてものはどこにも登場せず、「やたら長生きの守鶴という男が実はタヌキで、そいつがいくら汲んでも尽きない茶釜を持ってきた」というのが茂林寺に伝わる伝説であるらしい。
確かにこの話じゃイマイチ子供に人気は出なそうなので、素敵なアレンジを加えた巌谷氏に拍手をしたい。
また、宝物館にはこれまた大量のタヌキコレクションが展示されていた。
中にはタヌキなのか疑わしすぎるものも。
無理矢理この木をタヌキに仕立てあげる必要はあったのか??そして法界狸とは??
他に古い文書などもたくさん展示されている中、特にわたしが気になって仕方なかったのはコチラ
分福ヘルスセンターなる場所で行われた
「全国たぬき講講主 痩狸庵愚佛翁の ユーモアーたぬき葬」
なる催し物(!?)のお知らせ
「守鶴堂の和尚愚佛さんが今回タヌキの国へ転籍することになったそうです。どんなユーモアなお葬式でタヌキの国へ行くのでしょう?全国からたぬき講のみなさんが会葬に集まります。みなさんもどうぞ会葬してください。人界を去るという講主を弔い狸籍に入るのを喜ぶ弔辞・弔電・祝辞・祝電は会葬の人々をアッと言わせるユーモラスなものをお願いできますれば有り難き仕合わせ、本人も喜んで成仏し、タヌキの国へ行くことでせう」
おいおい、一体なんだ、これは????
ホントの葬式なら尊敬するレベルでくだけているし、冗談だとしたらどんなハイレベルな笑いのセンスを持っているのかとこれまた尊敬できる。
思わずたぬき講へ入ってしまいたくなりました。(っていうかそもそもたぬき講って何だ?)
しかしながら「弔辞・弔電・祝辞・祝電は会葬の人々をアッと言わせるユーモラスなものをお願いできますれば有り難き仕合わせ」ってハードル高すぎて腰が引けるわ!
こんな感じで意外とツッコミどころ盛りだくさんすぎた茂林寺。
とても有名な寺ですが、勝手ながら立派な珍スポットと認定させていただきまする。
最後に、タヌキパラダイス茂林寺でわたしが最も心奪われたタヌキをご紹介しましょう。
ご覧ください、この堂々としたお姿!!!
これぞタヌキの中のタヌキ!!!
(訪問日:2012年6月)
[茂林寺]
珍度:70%
オススメ度:80%
公式サイト
拝観時間:9時-16時
定休日:木曜日不定休
駐車場有り(わたしは車で行ったけど、駅からの道には分福茶釜の物語のあらすじが描いてあって楽しそうだった^^)
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